あの頃、CM制作会社で働いていた。
とにかく忙しかった。というより、毎日がずっと忙しい、みたいな働き方をしていた。
ロケハン、打ち合わせ、撮影準備、撮影、本編集──そういう工程が、まるでひと繋ぎの鎖みたいに続いていた。
案件が重なると、終わらないモードが永遠に続いて、
「休日」という単語が辞書から消えたような感覚だった。
働きすぎると、人間は慣れてくる。
欲望がどんどん小さくなっていくのが、自分でも分かった。
最初は「土日が休みだったら最高なのに」なんて考えていたのに、
そのうち「週に1回でもいいから休みが欲しい」になり、
「いや、もう、いいから……10時間寝たい」となり、
ついには「せめて6時間、寝たい……」だけを目標に生き始めた。
服をカバンに詰めて、事務所で寝泊まりするようになった。
2時に仕事が終わっても、事務所で寝れば朝9時までには6時間眠れる──そんな発見をして、
ちょっとした喜びのようなものを感じていた。
だから、夜10時に仕事が終わる日は、嬉しくて仕方なかったわけ、
夜に自分の時間がある! それだけで、休みをもらったような気分だった。
そんなとき、24時間営業のサウナに行くのが、ちょっとしたご褒美だった。
そこには温水プールとサウナとマッサージ、カプセルホテルもあって、終電を逃したサラリーマンたちが集まっていた。
地下にある温水プールは、ラグジュアリーな造りで、水は下からライトアップされ、
神殿の柱みたいな建築が並んでいた。
夜中、裸で一人で泳いでいると、ちょっとだけ現実から逃げられた。
そのときの自分は、ローマの貴族だった。
ただ、深夜のサウナには必ず「変なおじさん」がいる。
誰もいない風呂場で、わざわざ隣に座って身体を洗い始めるおじさん。
広々としたジャグジーに入っていると、対面にやってきて大きく腕を広げるおじさん。
そして、忘れもしない。
角刈り、白髪交じり、小太り、55歳くらい──おじさんの吐息が、顔に当たったときの衝撃。
吐くかと思った。
明らかに「胃」からくる匂いだった。
ドブ色の空気が口から出てくるのが見えた気がした。
俺は胸に刻んだ。口臭はなめたらあかん!
人の口は、いや、胃は、このポテンシャルを持っている!
そのおじさんは、ジャグジーの中で「あぁ〜」と唸り、息を吸い込み、そして「フー」と息を吐く。
波動砲か!
おじさんの息継ぎのリズムを読みながら、自分も同じタイミングで息を止める。
こんなにも他人の呼吸に集中したことがあっただろうか?
こわくなって、ジャグジーを出た。
あのおじさんはたぶん、病気だ。心配だ。
雑魚寝スペースも、おじさんたちで埋め尽くされている。
朝が来るまで、肩をぶつけながら寝る。
寝ぼけたおじさんが抱きついてきたこともあった。
それを払いのけながら、また眠る。
そんな話を先輩にしたら、
「あそこ、ハッテン場だから気をつけろよ」って言われて、それっきり行かなくなった。
あの生活は、たった6ヶ月で終わった。
入社時 会長からは「志があるか、バカしか続けられんぞ」と言われていた。
自分に志がなかったのか、それともバカじゃなかったのか…
気づけば、もう20年経っていた。
今はもう、深夜のサウナに行くこともないけれど、
もし若い子が一人で身体を洗ってたら──
たぶん、おじさんは隣に座ってしまうんだろうな、と思う。